小学校の国語の時間を筆頭に、誰もが一度は「走れメロス」という物語に触れたことがあるのではないでしょうか。
そんな走れメロスの登場人物の一人であるフィロストラトスを皆さんは覚えていますか?
時には暴徒に襲われ、時にはこのまま逃げ出せばいいという悪魔の囁きに打ち勝ち、友が身代わりになる処刑場へと舞い戻るメロス。
その勇気ある姿に暴君も心を打たれメロスを赦し、そしてこの物語を読む私たちに対しても友情がかくあるべきかを文字通り体現しました。
皮肉めいたセリフでメロスを罵るフィロストラトスの登場シーンはわずかですが、読者の印象にも残っていることと思います。
今回はそんなフィロストラトスが登場した意味や、果たした役割を人物像やセリフから考察してみました。
先に走れメロスの全文を読み直したい方は、以下のサイトよりご覧ください。
フィロストラトスとは?
まずは当人であるフィロストラトスについておさらいをしておきましょう。
フィロストラトスは、メロスの身代わりとして磔にされた石工であるセリヌンティウスの弟子で、若い身なりをした人物です。
登場シーンやセリフは少なく、原作でそれ以上の説明はなされていませんが、数ある走れメロスの漫画版においてはメロスと同年代か、少し若い人物として描写されることが多くなっています。
ちなみに、2世紀〜3世紀頃のローマ帝国においては実際にフィロストラトス(ピロストラトス)という著述家が存在したと言われています。
一方で走れメロスはの舞台は紀元前のギリシャとされており、時代が異なるため大きな関連性はないと思われます。
フィロストラトスの登場シーンとセリフ
そんなフィロストラトスが登場するのは物語の終盤。友の最期の日の夕刻にやっとの思いで処刑場間近までたどり着いたメロスに対して、さも最後の試練のごとく現れます。
約束を果たし、希望を胸に戻ってきたメロスに対しその希望を打ち消すような罵りの言葉を投げかけるのです。
「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方かたをお助けになることは出来ません。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
※以下引用部分についても同様
しかしながら、それらの言葉にも挫けることなく走り続けるメロスの想いを汲み取り、最後には応援とも取れるセリフを口にします。
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
フィロストラトスのセリフは以上で全てであり、登場シーンもわずかです。しかしながら彼の投げかける悲観的な言葉の数々は皆さんの印象にも残っていることでしょう。
セリフから見える人物像
それではフィロストラトスは一体どんな人物なのでしょうか。登場シーン以上に人物像に対する描写は少ないため、セリフから読み取るほかありません。
まずは悲観的であることや、メロスに恨みにも似た感情が印象に残りますが、「今はご自分の命が大事です」と付け加えるあたり強い恨みを持っているというわけではなさそうです。
師匠が処刑されることを悲しみながら、メロスまでもが処刑される事態を懸念していることからメロスと同様に根本の原因である暴君ディオニスに恨みを持っていると考えることができそうです。
また、磔になっても友を信じ続けるセリヌンティウスの様子をメロスに話すあたり、師匠であるセリヌンティウスをとても尊敬していたものと思われます。
メロスへの心配の言葉と師匠への尊敬から察するに、この時メロスに対しては「セリヌンティウスの分も生きてほしい」と感じるところがあったのではないでしょうか。
であれば、それでも生きることより友のもとに向かうことを選ぶメロスに対し希望を口にするのも納得がいきます。
決して「ネガティブなへそ曲がり」というわけではなく、彼なりの想いが素直に現れているセリフの数々とも感じられるのではないでしょうか。
登場する意味や果たす役割を考察
ここからはそんなフィロストラトスが登場する意味や、どのような役割を果たしているのかを考えることにしましょう。
前提として、走れメロスすでにさまざまな文学者によっても解釈されているので参考にしてみたいと思います。
例えば岡山大学の木村功氏は論文の中で次のように述べています。
「いまはご自分のお命が大事です」というフィロストラトスの言葉に、「信じられてゐるから走るのだ。」とメロスは動じない。
この時のメロスには、友の信頼に応えるということだけではない、「私は、なんだか、もつと大きい大きいもの恐ろしく大きいものの為に走つてゐるのだ。」と語るようなものが視野に入ってきているのである。
これまで、「友のために走る」という点が先行していた中で、「友の信頼に答える」以上の言葉にできない感情を仄めかすメロス。
セリヌンティウスの声がけは、メロスが信頼とは別の何かによって突き動かされていたことを強調させる役割があると分析をしています。
他にも多種多様な論文が存在しますが、私個人の考察としてセリヌンティウスの役割は努力を続けた人に向けられる負の目線を代弁している点にあると思っています。
例えばアスリートは日々その身を削ってトレーニングや練習を重ねますが、決して輝かしい成績を残すばかりではありません。
そんな時に周りの人々は、その努力を滑稽だと思う、引退したらいいんじゃないかと囁いたり、非難の言葉が浴びせられることもあるでしょう。
しかしながら、そのような人々を黙らせるためには、それでも成果を出すために真摯に取り組み続けるほかありません。
メロスとセリヌンティウスの掛け合いは、ネガティブな発言をする人々に対しての一番の対処法が「続けること」しかないことを示唆しているのではないかと考えています。
専門家に比べると浅い考察ですが、走れメロスを教育的な文学としてみるならこのくらいの解釈が妥当なのではないでしょうか。
おわりに
いかがでしたでしょうか。単なる「嫌なやつ」としてではない、フィロストラトスの一面を感じていただくことはできましたか?
物語の登場人物は、エキストラを除いて作者の何かしらの明確な考えのもとに描写されていることが大半です。
文学だからこそできる、人間や世の中のネガティブな一面の描写から様々な生き方、考え方を学ぶことは大人になってからこそ重要なことかもしれません。
皆さんも時間があれば、昔読んだ物語を読み返してみるのはいかがでしょうか?