5,7,5のリズムで季節の情景や心情を詠む俳句。
文学や芸術に興味がない人であっても、良い作品に触れれば情景が浮かび、思わず感動してしまいますよね。
そんな俳句の名を冠するものとして、「自由律俳句」もよく知られていますが、自由律俳句を見て「なんでもありだし、俳句じゃない!」と感じる人も少なくないのではないでしょうか。
今回は自由律俳句のルールや、本当に俳句なのかどうかについて考えてみましょう。
自由律俳句とは
自由律俳句は、一般的に5,7,5のリズムで季語を含むことが成立要件とされている俳句(定形俳句)とは異なり、リズムや季語の有無にとらわれず自由に情景や感情を表現することに重きが置かれた俳句とされています。
生みの親は荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)という俳人。
荻原は元々、定形・有季・客観性を重視した伝統的な俳句に対して、それらにこだわらず表現性・芸術性を高めようとする「新傾向俳句」を志した俳人でした。
新傾向俳句を突き詰めていく中で、「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」といった考えに至り、「一行の詩」というだけのゆるやかな枠組みの中で、自由なリズムをもって感動や印象を綴るものとして自由律俳句が誕生したとされています。
有名な俳人と自由律俳句の名作
自由律俳句のイメージを膨らませるために、有名な俳人とその名作を見てみましょう。
次に紹介する2人の俳人は、いずれも荻原井泉水の弟子として、自由律俳句の造詣を深めています。
種田山頭火
- 分け入っても分け入っても青い山
- まつすぐな道でさみしい
- うしろすがたのしぐれてゆくか
- ほろほろほろびゆくわたくしの秋
- おちついて死ねそうな草萌ゆる
尾崎放哉
- 咳をしても一人
- いれものがない両手でうける
- 肉がやせてくる太い骨である
- 漬物桶に塩ふれと母は産んだか
- こんなよい月を一人で見て寝る
自由律俳句が嫌いな人も多い
俳句を「ルールに縛られたもの」とすることを嫌い、自身の心情や感動を表現することに重きを置いた結果生まれた自由律俳句。
しかしながら、「自由律俳句は俳句じゃない!」と否定的な考えをもつ方も多いようです。
実際に学校教育で「俳句とは何か?」を学ぶ際には
- 5,7,5のリズムであること(多少の字余り、字足らずは許容)
- 句の中に季語を含んでいること
この2つが絶対条件と教えられることが少なくないため、「自由律俳句は俳句じゃないから嫌い」「ただの詩で俳句と名乗っている」と思われるのも仕方がないかもしれません。
自由律俳句はなんでもあり?
一見するとルールも何もなく、ただ言いたいことを言っているだけのようにも見えてしまう自由律俳句ですが、本当になんでもありなのでしょうか?
ルールはほとんどない
自由律俳句においては起案者である荻原の言葉通り、「一つの段落を持っている一行の詩」であれば、それ以上の細かいルールや決まり事はありません。
逆にいえば唯一のルールとして「一行の詩」であることが必要で、この点が自由律俳句といわゆる「詩(一行詩を除く)」の大きな違いとなっています。
二つの段落にまたがってしまうような冗長な文章では、自由律俳句とは呼べないわけですね。
リズムは自由だが重要視されている
自由律俳句では5,7,5のリズムは必要なく、どのような文章を書くこともできます。
とはいえ定型を踏襲していないだけであって、句を読んだ際のリズム感は作品の良し悪しを決める非常に重要な要素と言えるでしょう。
例えば定型俳句を詠む場合、初めの5の後、もしくは7の後に必然的に「息継ぎ」が入ってきますね。
この息継ぎから生まれる微妙な間が、文章の切れ目を伝えると共に、聞き手に情景をイメージさせる「余裕」を持たせてくれるわけです。
一方で自由律俳句には定型によって生まれる間がなく、それこそ自由に間をとった作品を作ることができます。
自由であるがゆえに具体的な「良いリズム」を説明することは難しいのですが、文節や言い回しから自然にリズムをとって詠んでしまう、
そんな文章が自由律俳句において技巧に優れた作品だと言えるのかもしれません。
自由律俳句と一行詩の違い
少々横道に逸れますが、それでは自由律俳句と一行詩の違いはなんなのでしょうか。
これは非常に難しく、作者が「俳句」と思えば自由律俳句、「詩」と思えば一行詩だという答えになると考えています。
いずれも「感動や情景を、リズム感のある言葉にする」という点で共通しており、結果生まれた文章も体裁上はほとんど変わらないものになるでしょう。
この考え方は、次に説明する「自由律俳句は俳句なのかどうか」にも近しい考え方となってきます。
自由律俳句は俳句じゃないのか?
それでは伝統的な俳句の決まり事を廃した自由律俳句は、本当に「俳句」ではないのでしょうか。
結論としては、その人の「俳句」に対する考え方に依るため一概に「どっちだ」と言うことはできません。
自由律俳句の発祥からもわかるように、俳人の中でも「俳句は決まり事が大事だ」という考えと「俳句は表現が大事だ」という対立が古来より続いています。
俳句を「5,7,5のリズム、および季語を絶対的に含むもの」として考えた場合は俳句ではなく、
俳句を「リズム感のある言葉で感動を表現するもの」と捉えた場合は紛うことなく俳句の一種と言えるでしょう。
とはいえ現代においては、学校教育で「俳句は決まり事に則って作られるもの」といった説明の仕方が広がっている結果として、
「自由律俳句は俳句じゃない」という考えが多数派となっているのかもしれません。
自由律俳句からみる「俳句の魅力」
ここまで読んでいただいたみなさんには、俳句における「決まりごとに従う」側面だけではなく「リズムよく表現する」側面を知っていただけたのではないでしょうか。
確かに、厳格な決まり事の中で最適な言葉や言い回しを用いる「巧さ」のある俳句が良い作品であることは間違いありません。
一方で自由律俳句における魅力は、見た目でわかる技巧よりも「想い」がストレートに伝わってくること。
良い作品は「俳句」であろうが無かろうが関係なく、心を動かしてくれることでしょう。
それを生み出すにはどのような想いがあったのか。自由な文章の中にイメージすることで、より深く良さを感じてみてはいかがでしょうか。