走れメロス‐暴君ディオニスの人物像や過去、変化について考えてみた

皆さんはふと、小学校時代に習った国語の物語を思い出すことはありませんか?

様々な物語の中でも、アニメや楽曲としても知られている「走れメロス」が印象に残っている方は多いのではないでしょうか。

邪知暴虐の限りを尽くす王に捕らえられてしまい、最期の願いとして妹の結婚式へと参加するため、友を身代わりにするメロス。

そのまま処刑から逃れることができたにも関わらず、数々の苦難を乗り越え処刑されに戻ってきたメロスは「真の友情」を文字通り体現し、その姿を見た暴君ディオニスを改心させることにも成功しました。

今回はそんな物語の発端となった暴君ディオニスについて、どのような人物なのかを振り返ってみることにしましょう。

走れメロスの全文を読み直したい方は、以下のサイトよりご覧ください。

目次

暴君ディオニスの人物像

暴君ディオニスの登場シーンは、メロスがシラクスの街で捕らえられ王の面前に連行される序盤と、処刑時刻間際に処刑場に舞い戻る終盤に集中しています。

登場シーンこそ限られていますが、まずは作中の人物像、セリフなどからどのような人物であるのか考えたいと思います。

冒頭ではシラクスの街を歩く老爺の言葉から、ディオニスの人物像を読み取ることができます。

「王様は、人を殺します。」

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」

「はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」

※以下引用部分についても同様

ここまでの老爺の言葉からは、まさに暴虐の限りを尽くす独裁者、というイメージが浮かび上がってきます。さらに、

「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」

といったように、非常に強い猜疑心を持っていることが背景となっているようです。

この猜疑心については後に、ディオニスの口から具体的に語られることとなります。

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」

「わしだって、平和を望んでいるのだが。」

「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてびたって聞かぬぞ。」

実際に描写されることはありませんでしたが、このようなセリフからは、ディオニスが臣下や民の私欲に裏切られ、失望し、平和を望みながらも人を信ずることができなくなったのではと推察することができるのではないでしょうか。

そして物語は終盤に移ります。メロスが処刑場に戻り、解放された友・セリヌンティウスと抱擁を交わすシーン。

暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」

この様子を見たディオニスは改心し、メロスとセリヌンティウス同様、人を信じる心を持つ仲間として認めてもらうことを願いました。

そしてその様子に、恐らくシラクスの市民である群衆から歓喜の声が上がり、物語は締めくくられることとなります。

以上のシーンから推測をしていくと、ディオニスはもともと市民からも信頼される優秀な君主であったにも関わらず、人間不信に陥り暴君になり果ててしまったのではないでしょうか。

冒頭の老爺のセリフは、ディオニスの残酷な仕打ちを非難するように聞こえる一方で、決して狂人ではなく、人を信じられなくなったディオニスを心配しているように捉えることもできます。

そう考えると、たくさんの人を手に掛けたにもかからわず、改心したディオニスのたった一言で群衆から歓声が上がったことにも納得がいくように思えますね。

もともと最悪の君主として嫌われていたのであれば、「人を信じます」と言っただけではい万歳、とはならないでしょう。

ディオニスの過去と心情の変化を考えてみる

ディオニスの過去については走れメロスの作中で語られていないため、読み手である私たちが知ることはできません。

しかしながら、ディオニスは紀元前5世紀~4世紀に実在した人物「ディオニュシオス1世」がモデルとされています。

このディオニュシオス1世について知ることで、ディオニスの過去について考察することができるでしょう。

ディオニスのモデルとされる人物

ディオニュシオス1世は、現在のイタリア南部、シチリア島に存在した都市シュラクサイを支配したギリシア人の僭主(非合法に政権を独占した支配者)。

残虐で猜疑心が強く執念深い暴君でありますが、その一方でシュラクサイの勢力を拡大し、有力な植民都市として成長させた功績も持つ人物とされています。

この功績が、走れメロスの作中における民衆からの支持として描写されているのではないでしょうか。

また、知的好奇心が旺盛で、歴史家や詩人、哲学者を身近に置く、あるいは文学作品を後援し自らも作品を著していた側面もあります。

走れメロスという作品自体、ドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーが原作し、日本のドイツ文学者小栗孝則が翻訳した『新編シラー詩抄』に収録されている「人質 譚詩」にルーツを持ちますが、

この人質においても、ディオニュシオス1世を主題とした物語が展開されています。

ディオニュシオス1世の過去

ディオニュシオス1世の過去を知るには歴史書を紐解いていく必要がありますが、駒沢大学の中村純氏の論文において、その半生がまとめられています。

ディオニュシオス1世には、当時の古代ギリシャの争いにおいて功績を挙げながらも国外追放の身となり、それでもなお兵力を集め君主の座に上り詰めたという経歴があります。

しかしながら君主となったディオニュシオスは一説によれば、君主であるがゆえに苦しみ、人におびえる日々を送ったとされています。

もともと傭兵を中心とした武力で王になったディオニュシオスはそれゆえに心より信頼できる人が少なかったようで、血縁を中心とした政治体制をとり、猜疑心を募らせていったのではないかと考えられています。

このようなエピソードが、走れメロスにおいてディオニスが人間不信に陥っていた背景として存在していたのです。

ディオニスの心情の変化について

前述したように、ディオニュシオス=ディオニスは王となってから血縁以外、つまるところ「他人」を全く信用していなかったと考えることができるでしょう。

そして作中ではついに、血縁や臣下にさえも疑いを向け、次々と手に掛けていった様子が語られています。

そんなディオニスが最終的に改心を果たしたのは、あくまで「他人」であるメロスとセリヌンティウスの強い絆を目にしたことが大きいでしょうう。

メロスがセリヌンティウスを身代わりにした理由には妹の結婚式、つまり「血縁」を重視する考えがありました。

これは推測ですが、ディオニスはこの「血縁」と比較することでさらに「他人同士の絆」を信じられないといった思いがあったのではないでしょうか。

だからこそ、この思いに反して真の絆と信頼を見せたメロスとセリヌンティウスに心打たれ、改心を果たしたというわけです。

おわりに

ディオニスは走れメロスにおける物語の元凶として描かれながら、最後には改心し物語を大団円へと導く役割を果たします。

他人を利用してのし上がったからこそ、かえって周りの人たちを信頼できなくなってしまう。

このようなことは、より高い地位を目指す大人になってからこそ、より起こりえることなのかもしれません。

作者の太宰治は自身も人間不信に陥り、最終的には自ら命を絶つに至りました。

もしかするとディオニスの心情の変化を通して、少しでも「人を信用したい」と感じてもらうことが、太宰治の想いだったのかもしれませんね。

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